チーフエコノミストコメント
物価上昇か需要後退か
コモディティ価格が上昇する中で、中央銀行は物価の上昇と景気後退という相反する政策課題に直面している。
2022.04.06
- 新型コロナウイルスのパンデミックは、各国・地域中央銀行の政策対応にとっては単純な問題だった。中銀がすべきことはただひとつ、財政政策を支援するのに必要な金融緩和を行うことだったからだ。
- 一方、ロシアによるウクライナ侵攻は、主にコモディティ価格の上昇という形で経済に影響を及ぼしている。結果、中央銀行は相反する政策課題に直面する事態になった。物価上昇の抑制に注力すべきか、それとも物価上昇を抑制した結果起こりうる景気後退を考慮すべきかということだ。
- 物価と経済成長が及ぼす影響には、一次的影響(直接的影響)と二次的影響の2つがある。
- 中央銀行は一次的影響に対する対応を急ぐべきではない。今回のインフレの高進はコモディティ価格の上昇を主たる要因としたものであり、コモディティ価格の上昇に対して中央銀行ができることはないに等しいからだ。
- だが、賃金コストと物価の上昇スパイラルという二次的影響が現れると、中央銀行には懸念材料となろう。こうしたリスクがない限り(現在のところないようだが)、中央銀行が懸念すべきは、需要の崩壊と労働市場が弱含む可能性が経済成長に与える直接的な影響だろう。
世界的なパンデミックに対して取り得る政策対応は1つしかなかった。政策の緩和である。議論の的は、財政緩和と金融緩和の適切な構成(および程度)に絞られていた。
一方、ロシアによるウクライナ侵攻は、主にコモディティ価格の上昇という形で世界経済に影響を及ぼしている。中央銀行は、コモディティ価格の上昇に対し、経済成長への悪影響を食い止めるために金融緩和を行うか、それとも物価上昇を抑えるために金融引き締めを行うかという、相反する政策対応を迫られている。どちらかを選ばなければならないが、どちらを選ぶ可能性が高いだろうか?
コモディティ価格の上昇はどのくらいの影響力があるか?
世界の総合インフレ指標のバスケットに占める純粋なコモディティ価格のウェイトは、およそ8~10%である(2019年のデータと価格水準に基づく)。だが、状況は各国で異なる。先進国ではインフレ指標バスケットに占めるコモディティ価格の割合は約4%である。この数字には、消費者が購入する石油だけでなく、原油価格が輸送費、発電、電力集約型の製品等に及ぼす影響も含まれている。つまり、毎朝飲むコーヒーにかかる石油も含まれているわけだ(コーヒーを淹れるのに使う電気は石油を燃焼して生成される。またコーヒーは農場から加工業者、加工業者から卸売業者、卸売業者から店舗、店舗から家庭へと輸送されており、それぞれの段階で石油が消費される)。コモディティがいかに重要であるかは、世界の国内総生産(GDP)に占める世界のコモディティ生産額をみてもわかる。
米国労働統計局のデータを見ると、食料だけで消費者物価指数(CPI)の構成バスケットの13%以上を占めているが、先進国のバスケットに占める純粋なコモディティの割合は4%未満である。食料に含まれるのは純粋な食料だけではないというのがその理由だ。コモディティをそのままの形で消費している人はほとんどいない。先進国では、食料消費支出額のうち、農産物そのものへの支出額は約2割にすぎない(米国ではこの数字をさらに下回る)。残り約8割のほとんどは、コモディティ生産後に発生する労務費なのだ。
だからといって、コモディティ価格を軽視してよいというわけではない。バスケットに占めるウェイトは小さくても、価格が大きく変動することもある。例えば、仮に原油価格が100%上昇すれば(そして利益率が下がらないと仮定すれば)、世界のCPIには平均2.3ポイントの押し上げ効果が及ぶと考えられる。
コモディティ価格の上昇はどのような影響を及ぼすか?
コモディティ価格は2つの経路を通じて経済に影響を及ぼす。インフレ率の上昇と、経済成長率の減速だ。
インフレ経路
コスト増は明らかにインフレの高進をもたらす。さきほど述べたように、原油価格が2倍になれば、世界のCPIは約2.3ポイント上昇する。コモディティ価格の上昇は、あらゆる製品とサービスのコストが上がることを意味する。そうしたコストは最終的に消費者に転嫁されるか、利益を圧迫するかのどちらかだが、もちろんその両方ということもある。これが一次的影響だ。
中央銀行にとってより重要なのは、二次的影響が起こるかどうかということだ。インフレを構成するバスケットにおいて最も高いウェイトを占めるのは労務費だ。労働者が一次的影響による物価上昇を理由に賃上げを要求すれば、それは企業にとって新たなより深刻なコスト増になりうる。賃金を引き上げた企業は、今度は労務費の上昇分を価格に転嫁する。これが二次的に物価上昇を引き起こす。つまり賃金コストと物価の上昇スパイラルが発生するのだ。さらに厄介なことに、賃金コストはコモディティ価格よりも反転しにくい。
ここで、賃金コストは賃金と同義ではないことに留意しておきたい。より多くの労働を提供する人に対して賃金を上げる場合はインフレにはつながらないし、追加労働が賃金上昇を相殺するならば、企業が価格に転嫁する動機とはならない。例えば、エコノミストが週60時間の労働時間を90時間に増やす代わりに10%の昇給を受けるとしたら、それは逆にインフレを押し下げることになる。企業側からみれば、10%の賃上げで労働力を50%増やすことができるからだ。
よって、価格の二次的影響において重要なのは、単位労働コスト、つまり1単位生産するのに必要な労働コストであるといえるだろう。図表2のとおり、最近の単位労働コストは上昇してはいるものの、取り立てて懸念するほどの水準ではない。ただし、このデータはロシアのウクライナ侵攻を受けた物価上昇が起きる前の期間のデータであり、中央銀行は二次的影響の可能性を引き続き警戒する必要がある。
特筆すべきは、賃金コストと物価の上昇スパイラルは、賃金と物価の継続的な上昇から起きるということだ。一時的な賃金コストの上昇は構造的調整であり、インフレ要因と見なすべきではない。例えば、2021年に見られたオンラインショッピングへの移行や製品需要の拡大時には、長距離トラック運転手の需要が著しく高まり、それにより運転手の賃金が跳ね上がった。だが、こうした賃金上昇により長距離運転手に対する需給は再び均衡を取り戻し、2022年にはこうした賃上げの必要はなくなった。
生活費の上昇から賃上げ要求が強まる可能性はあるが、これは労働供給量の増加(賃上げ要求の後退)につながる可能性もある。実質所得の足しにしようと副業に就く人もいるかもしれない。また、インフレの進行で不労所得頼みだと生活水準が徐々に低下してくるため、労働市場から離れていた人(早期退職者など)が労働市場に戻ってくる可能性もある。さらに、労働者が職の安定に不安を感じ始めれば、賃上げも頭打ちになる可能性がある。だからこそ、経済成長の経路が重要なのだ。
UBSウェルス・マネジメント
グローバル・チーフ・エコノミスト
Paul Donovan
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1992年にUBSインベストメント・バンクに入社、グローバル・エコノミストを務める。2016年8月にウェルス・マネジメントに異動。現在、グローバル・チーフ・エコノミストとして世界経済の分析とUBSの見解の策定・統括を担う。グローバル・インベストメント・コミッティのメンバー。
英オックスフォード大学にて哲学、政治、経済学の修士号を、ロンドン大学で金融経済学の修士号を取得。オックスフォード大セント・アンズ・カレッジの上席研究員。ドノバンの見解は多くの金融メディアでたびたび取り上げられており、著書も多数。